私は可愛い私が好きだよ

 美容院に行ってかわいくしてもらった。数年ぶりにきちんと前髪をつくり、髪の内側にピンクを秘めつつ、髪色を整えてもらった。頭からはブリーチ剤の、グッと顔をしかめてしまう特有の匂いがしている。

 我ながら可愛らしい。ずっと鏡を見てにこにこしている。かわいいねえナナちゃん😊😊と鏡に笑いかける。帰ってからずっとこんな調子です。

 私は、可愛い私が好きです。鏡を見て自分にかわいいねえと笑いかける私が、好きです。

 可愛いにこだわる人にはそれぞれの哲学があって、とてもカッコいい。かわいいことはカッコいいのだ。可愛いに限らず、私は己の美学を大事にしている人(なおかつ人の美学にゴチャゴチャ言わない人)が大好きだ。

 本当は全部ピンクにしたい。二階堂ふみちゃんや橋本愛ちゃんが前にしていた、あのピンクにしたい。ピンクのもつ強さにどうしても憧れる。どうしてピンクで仕事しちゃいけないのかな。

 私が働く(かもしれない)ところは変わったところだけど皆さんとても意識が高い。自分を高めるとか、社会に貢献するとか、そういうことを心の底から意識して大切にしている。それはとても正しい姿である。本来の正しい大人の姿。

 でも、そういうきちんとしたところだからこそ、髪色や体型に関してロールモデルを作らずに時代の前のほうで舵を切ってくれと思うのは、まあ、田舎娘のわがままでしょうね。一人ひとりの個性を大事にしてくれなんて、話相手一人にちゃんと関心をもって会話もできないような私が言えることでは到底ない。「会社が関係なくてもお客さんには関係ある。結局人気レースに勝たなくちゃしょうがない」という会社の主張も、まあわかるんだけどさあ。

 ところで。呪術廻戦という最近有名なマンガがありますね。そのアニメに出てくるセリフに、いつも泣きそうになるものがあって。

 

『私はきれいにオシャレしてる自分が大好きだ。強くあろうとしてる自分が、大好きだ!』

 

 どうしてかはうまく説明できないのですが、いつも涙がこみあげる。何回も見たからもう泣かないけど…。

 

 私は私でいたいなあ。それだけなんだけど。でも私というものがなにかをわからないから、ずっと困ってるんだよね。

 生きるのめんどくさい。全部だるい。自分なんてないらしいけど、自我を強くもたないとやっていける気しないです。

 前向きなことなんも言えないなあ。最近ずっとこんな調子です。可愛いあなたのこと好きだよ、と鏡にささやいてあげることしかできない。

 お元気ですか?あなたがお元気だといいな。

❤︎❤︎❤︎

 今日起きたのは昼過ぎ、2時だった。自分への失望と死にたさでしまいに眠れなくなった昨夜から、10時間以上が経っていた。

 逃げるように大学を辞めて、愛する彼氏とどうにか別れて、現在は仕事先は決まったものの自分の中身のなさとコミュニケーション能力のなさといった自分への失望もろもろに心がボロボロになっている。自分をないがしろにすることで安心してしまうのだ。

 せっかく読んでくださっているのにこんな暗い話ばかりで申し訳ない。

 とりあえず生きてはいるが、生きることがめんどくさくてならない。ご飯食べるとか、お風呂とか、お金とか、ダイエットとか、お母さんに連絡とか、その上労働で社会貢献だなんて、まったく狂ってるぜ。ずっと寝ていたい。永眠したい。自分で死んだらまわりの人が変に苦しんでしまうからそれはしないけど、自分の存在が全部なかったことになるボタンとかあったらたぶん押すなあ…とか考えていた。生まれてきたことがもう間違いなのでは。

 だめだ。もうブログのゆくさきもわからない。とりあえず書き始めたけれど話をどうもっていくかもどう落ち着かせるかもまったく浮かばない。こりゃあだめだ。うん。

 本を読んでいて思ったことでも書こうかな。「公共性をもとめるより偏愛を突き詰めたほうが良い」みたいな文があって、そういえば秋元康もそんなことを言っていたとツイッターで見たな、と思い出した。わたしのへんあい…?と考えて、ツイッターをメモにして「女の子。うつくしいことば。光。」とツイートした。

 好きなんだよなあ、女の子。私も女の子なんだけど。女の子というそんざい、いきもの性をもっともっと見つめたいという感じがしている。

 これでなにか仕事できないかなあと思ったけれど、コミニケーションのできなさを思い出して、また一人でフッと自嘲気味に笑うのでした。嗚呼。

 こんな馬鹿みたいな文章をここまで読んでくださって本当にありがとうございます。あなたはお元気ですか?私は全然元気じゃありませんが、あなたが元気だったらいいなあ、と思っています。どうぞお元気でいてくださいね。

がたんごとん

 通勤の電車の中で、外では景色が流れてゆく。大阪では、桜がもう8割ほど葉になっています。目にもとまらぬはやさで、命はぞくぞくとめぶいているようです。

 退勤が夜遅いかわりに出勤は昼過ぎなので満員電車に乗らなくていいのはすばらしい。景色を楽しむどころか痴漢だとかクソみたいなものを気にしなくてはならなくなるから。

 地上の電車は楽しいけれど、地下の電車はやはりさみしい。景色が変わらなくて冷たい。数年前の鬱々としていた時期を思い出すようななつかしさ感じはあるけれど。

 向かいの窓ガラスに女の子が写ってる。三つ編みのおさげをつくっていて、前髪らしきものが2本ちょろんとあって、まなざしはしずかで、しかし、ぜつぼう、とゆう感じでもない。わたしだ。今までほんとうに嫌ってきたおとなとゆうものになろうとしている、わたしだ。

 おとなになってしまうことは寂しいことだと思っていた。プリンのカラメルのにがさを喜ぶこと、子どもの気持ちがわからなくなったことすらわからなくなることが、どうしても、さみしかった。

 けど、大人になることは絶対必要なことで本当は素晴らしいことなんだと教えられた。お金を得ること、社会にもらったものを仕事で返してゆくこと。なるほどなあ、と思う(なるほどとたしかには社会人は言ってはいけないと言われたので口には出さない)。

 高校生の私は、今の私をそりゃあさみしがるだろう。裏切られたとまで言うかもしれない。

 でも、まあ、まだよくわかんないし。大人とか。自分を高めるとか。大人になるべきなのかとか。子どもではないが大人にも一生ならないだろうと言った脚本家を、わたしはとても好きなのだ。

 大人になることは失うことだと思っていた。でも、私は結局大森靖子を聞かないと家を出る気にならないし、山戸結希の映画を見たら心臓が浮くし、浅野いにおも宮崎夏次郎系もふつうに好きだ(少し登場人物に距離を感じるようになってしまったかもしれないけれど)。

 うだうだ書き連ねてみたけれど、結論。なにも失わずに大人になりたい。

 プッチンプリンの甘ったるさにニコニコして、好きな絵本を一冊ずつ本棚におさめて、大森靖子ドレスコーズ放課後ティータイムを聴きながら退勤して、お金もちゃんともってる、堂々としたかっこいい大人になりたい。

 もうすぐ、電車を降りる。私を味方してくれたもの、全部全部持っていきたい。ほんとうは。

天性の魔性の女

 断捨離彼氏をして3日、無職少女はティンダーで遊びまくって(そしてご飯を奢ってもらって)おります。でも彼氏はしばらくいらないなと思っている。

 昨日はベトナムの人と遊んでいたのだけど、なぜだかその人にえらく好かれてしまった。ホテルで告白までされてしまった。たいへん困った。

 そして思い出した、先月、親愛なる友に「あなたは天性の魔性の女」と言われたことを。

 かわいそうに。このベトナムからやって来た男の子も天性の魔性の被害者となってしまったのだ。私の思う限りでは、魔性の被害者は彼で三人目だ。やれやれ、なんだか罪深い女の子になってしまったなあ。

 

 私はフッ軽なのと性癖の癖が少し強いので忘れられがぢだが、人との関わり、関係というものにとても真面目なのだ。人と関わるときに誠実さを忘れてしまうことほど恐ろしいこともそうそうないと思っている。自覚は薄いが、私は多分とても人に気を遣っている。

 そして、男の人と関わる上でそれが裏目に出てしまうのだと思う。腹の中ではクソみたいなことを考えているのに優しいとか言われてしまう。優しくはない。本当に。やめてくれ。お前たちはもっと人の裏を意識したほうがいい。

 私の顔面が美しいから気をゆるませてしまうのだろうか。ごめんね、美しくって。

 でもこの顔じゃなかったら好きにならなかったの?と思うとそれはそれでルッキズムに腹が立つ。めんどくさいな、と自分でも思う。

 

 元カレが忘れられなくて…というのを理由に、ベトナムの彼の申し込みはなんとか辞退したが、彼に退く気はまったくないようで本当に困っている。とりあえずセフレという位置で落ち着かせたが、彼との夜の運動会は正直全然楽しくなかったのでまた会う気はない。とりあえずラインをブロックはしてあるが、友達として友好な関係を築けそうな程度には仲良くなってしまったので、本当にどうやって縁を切ったものかと悩んでいます。どうしたらいいんだ。知恵袋に行けばいいのだろうか。だれか教えてほしい。なんでもいいので解決方法を思いついた方、DMに送ってください。切実にあなたの助けを求めています。どうか遠慮なさらずに、罪深き子羊にご教示を!

 

 でもこうやって縁の切り方に贅沢に悩むのも、天性の魔性の女の宿命(さだめ)なのでしょう。しょうがないし、人を傷つけるのだから、これくらいの苦労は軽く引き受けなくてはなりません。

 これまで私の魔性の被害に遭われた男性たちに、心よりお悔やみを申し上げます。

断捨離彼氏してきた

 この度、断捨離彼氏をしてきました。七ヶ月付き合った彼氏と、思っていたより美しく、無事別れることができました。

 別れる理由についてぐちぐち言われないかなーとか密室で首締められないかなーとか考えていたのですが、理由については何も聞かれず、君が決めたなら、と受け入れてくれました。別れる理由を聞かなかったのは、傷つくのが怖かったのでしょう。

 私は別れる理由を語るべきだっただろうけど、何も言えなかった。ちゃんとありがとうって言いなさいとか、ちゃんと人の感情に向き合いなさいとか、私だって彼に幸せでいてほしいとは思っているので、言うべきだった。でも人を傷つけることがおそろしく、結局そういうことは何も言えずじまいだった。

 前日までは、さあ断捨離するぞ〜!のテンションだったけれど、行きの電車からかなり緊張していて、会って話しているときはわりと泣かないように必死だった。あんなことがあった、とかも思い出さないようにしていた。うつむくと、彼の手が視界の中心にあって、その指にまつわるいやらしいことやいとしいことをぼんやり回想してしまった。

 ただ私の幸せを祈ってくれたことがひたすらありがたかった。家族や、一度会っただけの大学の先生とか、友達とか、私はほんとうにまわりの人から幸せを祈ってもらうことが多くて、そのたびに人に幸せを願ってもらうのってなんてありがたいのだろうと思っていた。だから、別れた彼氏にそう思ってもらうことがどれだけありがたいかもわかる。ずっと好きでいてくれてありがとう。本当に、大好きだった。

 別れ際の涙腺は相当やばくて、涙はこぼれこそしなかったものの、泣いちゃだめだよと笑われた。思い返せば、とてもさみしい笑顔だった。

 彼と別れてすぐ泣いてしまって、彼からラインが来てまた泣いた。特急内で見苦しいことにならないよう安いハンカチに鼻水も涙も拭き取らせた。発車するまではただ人を傷つけただけなのではないか、とんでもないことをしたのではないか、とさえ思いましたが、そう思うのは会ってしまったからでしょう。会わないときの、別れよ〜の気持ちこそが私を幸せにできると信じたほうがいい気がする。そう信じますし、信じるしかもう手がない。

 そして好きなアイドルの曲をしばらく聴いて落ち着いて、今これを書いている。

 

 さて、今から私が帰ってなにをするかというと、昨晩はじめたティンダーで約束した男と遊んできます♡ てへぺろ

 男であけた穴は男で埋めよう。うんうん。

 まあほんとうに埋まるのかはさておき、私は案外元気です。一時はしんみりしていても、納得して切り替えればはやいのが私です。

 ここ何年も埋まらないなにかを埋めるような旺盛な食欲も落ち着いてきて、いい方向に向かっているということだと思います。これは私にとって、かなり安心できる要素です。

 

 幸せな生活を送ってください、と言われてしまったからには、幸せにならなきゃいけません。私は私のことを、幸せにしてあげたいです。責任を負えるならば手段なんてなんでもいいんだし。

カレーって楽しい

 このあいだ、引っ越しのときに親が手伝いに来てくれた。手伝いどころか、自前のトラックに冷蔵庫や洗濯機含む荷物や家具を全て積んで運んでくれた。人生であれほど親が頼もしかったことはない(ありがとうございました!!)

 その道中、母とカレーの話になった。母は、カルディでカレーの粉のセットが売っていて、最近はそれで作っているのだと言った。わたしはふんふんと興味深く話を聞きつつ、ドライカレーがうまくドライにならずかたまってしまうとか、やけに味が濃くなるだとか、カレーの最後の煮込みをさぼったせいで水が多くなってしまったとか、そんな相談をした。適切なアドバイスらしきアドバイスはなかったが、母にもドライカレーは難しいと教えてくれた。難しいと言いながら、母のドライカレーはふつうに美味しいのだけれど。

 途中で父が口をはさみ、最近はカレーばかりな気がすると言った。ここ一ヶ月ほど、母は毎週末ライブに行っていて、その日は毎回カレーだそうなのだ。

 カレー楽しいもん、と母は笑った。私も同意した。カレーは楽しい。具や調味料のバリエーションが幅広くて、楽しみの余地が大きい食べものだと思う。そういう理屈っぽいこと抜きにしても、カレーというものは、なにか光をひめる食べ物だと感じる。

 リトルフォレストという映画があって、その中で、主人公と口喧嘩をした友人が仲直りのときに鍋にカレーをつくって鍋ごと持ってきて、いっしょに食べるというシーンがある。あのカレーを、わたしはとても特別に思った。

 喧嘩した友達のことを想いながら作るカレーってどんな味だろう。きっととてもおいしいよね。言い過ぎたよな、ゆるしてくれるかな、なんて言おうかな、そう考えながら野菜を切って、鍋に入れて、煮て。においや音、心の動きや落ち着きが、ない記憶をなぞるように脳にあふれた。

 特別なときもふつうなときもカレーはおいしい。わたしが作ったなんの変哲もないカレーを、いつかまた誰かが食べるのでしょう。

 

 優しいカレーを作る手を、持ちつづけたいです。

 

 

シンエヴァ見てきた

 今までエヴァンゲリオンのストーリーをどこか自分とは遠いものに感じていたが、それが覆った。とてもわたしたちと近いものだった。交わることのない別世界の話かと思っていたのに、とても大きくて近くて、私たちが踏みつけている地面そのもののよう。

 

 愛したい。愛されたい。ゆるしたい。ゆるされたい。


 エヴァンゲリオンって、なんなんだろう。シンジにとって。ゲンドウにとって。レイにとって。綾波(仮)にとって。アスカにとって。カヲルにとって。ミサトにとって。
 それぞれエヴァに求めるもの、あるいは求めるものがあるからエヴァにすがる理由がある気がする。一人一人違う。でもみんな、何かの埋め合わせにしようとしている気がする。めちゃくちゃ浅い考察で申し訳ないです。


 うまく言えないのだけど、だれもがエヴァンゲリオンというものをもっている気がする。心の中に。それぞれ違う形でもって。

 生まれてから死ぬまで、わたしの心にわたしのエヴァがいるような気がした。

 

 みんなみんなさみしくて、愛されなくっちゃやってられない。やってられないっていうのに、全然足りない。足りないんだよ。