米津玄師の曲って曲そのものが映像みたいだから、ミュージックビデオは必要ないのではないか。
Lemon、アイネクライネ、Loserなど、多くの人にそれぞれ思い入れのある米津玄師楽曲があるだろうが、私が考える米津玄師楽曲に共通する特徴を一つあげさせてほしい。
「いろんな音があちこちで鳴っていて、かつ一体感がある」
→映像の特徴と同じでは?
大勢が行き交う交差点の映像、風に雑草が揺れる堤防の映像、あるいは複数人による踊ってみた動画。
映像というものは
「いろんなものがそれぞれに動き、かつそれらが一つの枠に収まっている」特徴をもつ。
→米津玄師楽曲と同じ
そういうわけで、ここでは
「米津玄師楽曲は映像的である」
と表現する。
そして、映像的な芸術に映像をつけるのは、野暮と言えるのではないか。
正直私は米津玄師楽曲のミュージックビデオに、調味料を二倍にした料理のような味気なさを感じている。
ここではミュージックビデオの『映像』…カメラが写す情動や、映像の楽曲を拡張させる効果について問いたい。
たとえば『POP SONG』のMVは美術でゲームの世界観をリアルに表現した印象的な映像作品だったが、個人的には米津玄師氏の死神のスタイリングが圧倒的に素晴らしい作品だったと捉えていて、「映像の力」としてはスタイリングの凄みに及ばなかったのではないかと思っている。
ここまでが私の提唱する「米津玄師楽曲にMVをつけるのは野暮説」だが、最後に一つ、『KICK BACK』のMVは最高。
『KICK BACK』のMVは『感電』のMVも手がけた奥山由之監督によって撮られているのだが、これについては米津玄師楽曲のミュージックビデオとして最高の作品だったと思う。
映像の動きとして曲の爽快感や熱さに寄り添いながらも観客を戸惑わせるようなシーンが何度もあり、私がMVに求める「曲の印象を景色でなぞるだけではない、音を拡張する芸術」が華麗に表されていたと思う。
あと『死神』のMVも好きです。